Svalbardノルウェー北欧

北極点からわずか1000㎞ ノルウェー スヴァールバル諸島 極地の自然の神秘と歴史を知る!

北極点からわずか1000㎞。人が定住する世界最北の地、ノルウェー スヴァールバル諸島。Svalbard museum(スヴァールバル博物館)で極地の自然の神秘とその歴史を知ることができます。今回実際に訪れた写真をもとに解説します。

スヴァールバル諸島・ロングイェールビーンの位置

上のマップ上、オレンジのピンがロングイェールビーンです。

比較として、ブルーのピンを打ってみました。ブルーのピンは北欧4国各国の首都の空港です。

グリーンのピンはトロムソ空港(TOS)です。ロングイェールビーンにはオスロ空港からのダイレクト便か、トロムソ空港からのフライトを利用することになります。

ロングイェールビーンへのアクセスについて以下にまとめていますのでどうぞご覧ください。

ロングイェールビーンの町の地図

ロングイェールビーンの街中心部の地図に色分けしたピンを打ってみました。両側を山に囲まれているため縦に長い町になります。

紫色のピン:ホテル

グリーンのピン:スーパーマーケット

ブルーのピン:教会、博物館、観光案内所等

オレンジのピン:レストラン

上のマップの最上部グレーのバー左端のアイコンをクリックすると、それぞれのピンの詳細表示をご覧になることができます。

ロングイェールビーンの町の様子に関しては以下にまとめていますので是非ごらんください。

スヴァールバル博物館「Svalbard Museum」

世界最北の高等教育機関であり、北極圏に関する生物学や地質学などの課程があるスヴァールバル大学センターに、スヴァールバル博物館は併設されています。向かって左が大学センターの入り口、右がスヴァールバル博物館の入り口です。

スヴァールバル博物館側の入り口です。

では中に入ってみましょう。

-20℃の極寒の外とは違って施設内は暖かく調節されています。靴を脱ぎ、服をハンガーにかけて、備え付けのスリッパをはいて中に入ります。リュックの持ち込みは出来ませんので、入口にあるロッカー(無料)に入れておきます。入口入ってすぐあるカウンターで入場料を支払います。もちろんクレジットカードに対応しています。

入場料等の情報は以下の通りです。

10月1日~1月31日:12時~17時、大人1人90NOK、その他料金設定あり

2月1日~9月30日:10時~17時、大人1人90NOK、その他料金設定あり

スヴァールバル博物館の公式ウェブサイトはこちら

入場料チケットのカウンター横にはお土産や書籍が沢山販売されています。

では博物館の内部に入ってみましょう。

入口には大きなセイウチが迎えてくれています。

セイウチ:大きい体で大きな牙、英語では「walrus」。

アザラシ:セイウチと違って小さな体で、ゴマちゃんで有名なゴマアザラシ等を思い浮かべるとわかりやすいです。英語では「seal」。

アシカ科アシカ、オットセイ、トドになります。アシカは「sea lion」。オットセイは「fur seal」、トドは「Steller’s sea lion, largest sea lion」。耳の穴だけのアザラシと違って、アシカ科は外耳があります。

入口ゲートを通過するとすぐ、スヴァールバルの地理的特徴と発見の歴史についての展示になります。

スヴァールバルは北緯74度~81度にわたる諸島で、ロングイェールビーンがあるスピッツベルゲン島意外にも数個の島からなっています。スピッツベルゲンの北東にはスヴァールバルで最も高い山Newtontoppen、1713mがあります。スヴァールバル諸島の全面積は61000km2でデンマーク(43094㎞2)より大きな面積となります。ロングイェールビーンから北極点までは1338㎞、ロングイェールビーンからオスロまでは2313㎞です。

16世紀終盤においてオランダ人の探検家が発見したことからスヴァールバル諸島の歴史は始まります。その当時のオランダは航海技術が発達しており、造船だけでなく、地理学の分野でも急速に発展を遂げました。新なマーケットを探すための遠征道具を備えるのに十分な富と財産を所有した商売人たちがオランダにはその当時沢山いたようです。スペインとポルトガルが東方へ向かう南回りルートをコントロールしたため、オランダ人は当方へ向かう北回りルートを開発することになりました。1596年5月、Jan Comelisz RijpとJacob van Heemskerckがアムステルダムから2隻の船を出し、その中にWillem Barentszがナビゲーターかつリーダーとして乗っていました。1594年、1595年にBarentszは北回りルートの開発をチャレンジしていましたが、2階ともカラ海の海氷によって途中断念を余技なくされていました。そのため1596年は北極点に直接向かう方向進路を航路としました。1596年6月5日に流氷のために船が東よりの航路になり、そのためあってか6月10日にBjomoya島がまず発見されました。その後、彼らは6月17日にさらに北緯80度にも新しい島を見つけることになります。彼らは島の沿岸に沿って船を進め、その島をスピッツベルゲン島(Spitzbergen、山とピークしかない島という意味)と名付けました。それ以降スピッツベルゲン島が世界的に認知されることになりました。Barentszはその後東方へのルートを探索継続しましたが、途中ノバヤゼムリャで航海が不能となりそこで越冬を余儀なくされ亡くなりました。

1597年10月29日Barentszと一緒だった仲間たちがオランダに帰還し、東方ルートの開拓は出来なかったものの、1596年のBarentszが発見した島と地図を持って帰っており、北緯76度という高緯度での越冬とそこからの帰還というのは当時のヨーロッパでは相当のセンセーショナルな出来事でした。

スピッツベルゲン島は次第に有名になり、多くの遠征隊が探索のためにこの島に向けて出発するようになりました。なお、スヴァールバル諸島がノルウェーの一部になったのは1920年からでした。多くの遠征隊の目的は地図作成が主でしたが、同時に最も北にある場所にいく記録を作ることも彼らの目的でもありました。19世紀になって、研究者達がこの極地が気象学・地理学・オーロラなどの自然現象を理解するにあたって重要な場所であることを理解し始めました。

1882-1883はInternational Polar yearとされ、8つの国が協力して14の研究ステーションをこのPolar Yearの間に設立しました。その当時はスウェーデンがスピッツベルゲン島のステーションの責任を持ちました。1882年8月から科学的研究が開始され、冬の間の観測や計測データは多くの研究者にとって非常に重要なものとなりました。その当時の研究者の中にKristian Birkeland (ノルウェーのオーロラ研究第一人者、アルタのオーロラ博物館の投稿参照)もいました。

気球、潜水艦、飛行船を使用し、北極へレースとなったこの現象は世界中の人々を惹きつけました。しかしこの試みで命を落としたものもいたことを忘れてはいけません。

飛行船「Norge」は1926年の春にNy Alesundに到達しました。飛行船は問題なく5月12日に北極点を通過しましたが、乗船していたAmundsenがその名誉を、同じく乗船していたNobileとシェアしたがらなかったため、当時のAmundsenとNobileの間に大きな亀裂が生まれました。1928年5月、飛行船「Italia」がNy Alesundから出発し、北極点に到達しましたが、その帰りで悲劇が起こりました。帰りの際に飛行船が氷塊に衝突し、通信ができなくなりました。広範囲にわたる複数の国々の大捜索でNobileや他の7人は無事発見されましたが、残りの8人は発見されることがありませんでした。犠牲者は他にも居ました、Roald Amundsenはこの捜索に参加するためトロムソからスヴァールバルに向かう途中の飛行機「Latham」に乗っていましたが、墜落して亡くなってしまいました。このようにして北極研究のexploration phaseは終わって行きました。

15世紀に中央ヨーロッパは急速に成長し、内戦や危機、伝染病など多くの事柄が起こりました。人口も増えたこともあり人々が移住をし始めます。16世紀には商用の目的もありヨーロッパ以外の大陸に向かって探索が始まり、その後200年ヨーロッパは世界の中心的立場になりました。その中で、ヨーロッパの政治的、経済的発展にはスヴァールバルでのクジラ漁が背景にありました。

その当時のヨーロッパ内での効航海をリードしていた国はスペインとポルトガルでした。彼らはアジアとアメリカを発見し、それに伴う商業による利益を独占していました。イギリスやフランス、オランダなどの北西ヨーロッパの国々がその後成長し、独占されていたスペイン・ポルトガルの利益を奪取しようとしました。そのために東方へ向かう北回りルートが開拓され、北方の海における系統だった探検が開始されました。

スヴァールバルの発見の後、クジラやアザラシ、セイウチが付近に多く存在することが報告され、同時にクジラ製品やアザラシ製品の必要性がヨーロッパで高まっていました。そのためイギリス・フランス・オランダなどの当時の海運国はクジラ漁をスヴァールバルで行うことに目を付けました。1612年はスヴァールバルにおいて系統だったクジラ漁の開始の年として記録されています。東方への北方ルート開拓という目的は未だに残っていましたが、もはやそれが主目的ではなくなりスヴァールバルでのクジラ漁が主な目的になっていきました。

Walrus(セイウチ)は全長が3m以上、体重が2トン以上にもなることがある大きな動物です。雄もメスも牙を持っています。400mの深さや40分間海中に潜水することができます。セイウチ漁は海氷上や陸上で行われ、セイウチは唯一のどの部分が比較的柔らかいのですが、全体的にとても分厚い皮膚を持っているため漁をするのに困難を伴いました。アザラシ漁で使用される木製のモリではセイウチを殺すことはできず、18世紀の銃でさえセイウチを殺すには困難であることが多かったようです。

「Polar bear(シロクマ、ホッキョクグマ)」は海洋上の哺乳類です。ほとんどの時間を海氷上で過ごします。アザラシが主な食料です。鋭利な歯と爪を持っており、それがアザラシを捕まえて食べるのに適しています。嗅覚がとても優れており、数キロ先のアザラシをも感知することができると言われています。分厚い毛皮と脂肪のおかげで北極の厳しい気候で生活でき、冷たい海水の中を長距離泳ぐことができます。雄は500㎏にもなり、メスはその半分程度の大きさになります。母グマは普通2匹の子グマを生み、子グマは2歳になるまで母親と共に過ごします。そしてクリスマス時期に生まれることが多いと言われます。500gの大きさで子グマは生まれ、4月には10㎏(大きな犬)程度まで急速に育ちます。

18世紀の終わり頃からフィンマルクエリアでの商業が始まりました。当時のロシア北西部に住んでいたスラブ民族との取引が増加し、商売人たちの経済状況が変化していきました。そしてノルウェー人にこの豊富なスヴァールバルの資源が明らかにされたのは1820年頃でした。1890年代の終わりから1941年まで、越冬し動物たちに対し罠を仕掛け、狩猟を行うことはスヴァールバルにおいて真っ盛りでした。

なぜ人々がヨーロッパ本土からリスクの高いスヴァールバルに移ってきたのかは今も明らかではありませんが、より自由に過ごせて、冒険できる土地であったことは理由の1つであったと考えられます。

狩猟人たちはベースステーションというメインの山小屋と、それとは別に小さな山小屋をいくつも作りました。それらは歩いて1日~2日程度の距離離れていて、北極グマを捕らえるための仕掛けが設置されていました数多く設置されていました。

スヴァールバルでは全て時代の地質学的所見の岩を見つけることができるため、今日ではスヴァールバルは国際的に地質学のメッカになっています。

何百万年も前の植物や動物が長い間土に埋まりそれらが、Coal(石炭)になりました。そしてスヴァールバルにコミュニティを形成したものがまさしく石炭採掘という事業でした。20世紀の終わりまでコミュニティの発展と各種サービスの創設のために石炭採掘事業が必要とされました。

スヴァールバルの西海岸は石炭採掘にとって好都合でした。なぜならば、この場所は夏の間、氷が存在せず、地層中の石炭の沈着を確認しやすかったからです。1869年にはすでにイギリス人とノルウェー人で石炭採掘がされており、1899年にはノルウェー人だったSoren Zakariassenが多くの石炭を本土に持ち帰ったという記録があります。その後1905年~1906年にかけて30人の鉱山夫(イギリスの石炭採掘会社)が越冬しましたが、それについてはあまり採掘が芳しくなかったということもありました。1906年にアメリカの石炭採掘会社「Arctic Coal Company」がLongyear Cityで石炭採掘を開始し、コミュニティの名が会社の代表者のJohn Munro Longyearbyenにちなんで名付けられました。その後ノルウェーの採掘会社が引き継ぎ、町の名前が「Longyearbyen」となりました。

19世紀の終わりには地質学のマッピング、北極グマの探索などで多くの人がスヴァールバルを訪れるようになりました。このことが、人々がこの資源豊富な土地の所有権を持ちたがることにつながりました。1898年から1920年にかけて、100以上もの所有権の宣言が色んな土地に対して行われました。その当時にはどのように所有されるかを示す公式の手続きがなく、石炭発掘会社と所有権を宣言していた人との間にはしょっちゅう争いが生じていました。このことがスヴァールバルに公的な判断ができる部署が存在する必要性を生みました。

多くの石炭採掘場所は年々変わり、主な流れとして多くの小さな採掘会社はあまり長く続かず、売られたり、他の国の会社に引き継がれたりしました。場所によっては豊富に石炭が取れ続け、今でも操業している会社もあります。

Ny-Ålesundは北緯78度55分、東経11度56分に位置し、北極点から1231㎞、ロングイェールビーンの107㎞北にあります。このNy-Ålesundという名前は、ノルウェーの石炭採掘会社「Kings Bay Kull Compni AS (KBKC)」によって名付けられました。ノルウェーの町Ålesundにちなんでおり、会社のあった場所でした。KBKCは1917年から石炭採掘を開始し、12年間操業しました。その後はノルウェーの州がそれを1945年から再度ひきつぎ、多くの石炭を採掘しましたが、1948年、1952年、1953年に大きな事故が発生し、計28人が亡くなりました。1946年~1962年までにNy-Ålesundの鉱山で計76人がなくなり、人々が去ったのちに1963年鉱山は閉山となりました。

いまはNy-Ålesundは極地研究ステーションとして開発されており、今日ではKings Bay AS は様々な研究チームのためにすべてのインフラを整備し提供しています。冬の人口は約30人で、夏の間は130人にも増加します。

そして、石炭採掘キャンプという形から家族社会の形成が始まり、スヴァールバルの現代的生活の時代やってきます。

スヴァールバルは北極海の入口に位置し、そしてそこには地球の気候に重要な影響を与える大きな海流がやってきます。スヴァールバルの付近の海は生物学的に豊富な種類の動物を含んでおり、地上えでは古代からの地球の地質学的な構造に簡単にアクセスできます。それに加えオーロラがよく観測されますので住める研究室ともいわれます。Ny-Ålesundでは8つの国が一年間通して研究ステーションで様々なプロジェクトを遂行しておりまさに石炭採掘の次は研究の町として次第に変化しています。

今やスヴァールバルはノルウェー人だけでなく、他の国の人々にとっても異国情緒のある独特な行先です。ロングイェールビーンには沢山のツアー催行会社、アクティビティ催行会社があり、今やレストランやバーまで町にはあります。1990年までそのような旅行業社はスヴァールバルには存在していませんでした。旅行業が新たな職を生み出し、ロングイェールビーンの経済が回ることが判明して以来これらの催行会社の数が増加していきました。今では年間に約3万人の旅行者が訪れ、さらに大型旅客船が立ち寄るようになり、とてもオーガナイズされた旅行先になっています。

増加する旅行者は環境問題を引き起こす可能性も出てきました。草木や歴史的遺産の破壊や汚染、騒音などの問題が出てきました。今はスヴァールバルはその野生のエリアの保存に努めようという動きがあります。

スヴァールバルには「The Seed Vault (種の保存センター)」があります。今後海水レベルがいくら上昇しても影響内容に種は山の奥の永久凍土層に安全に保存されています。このThe Seed Vault (種の保存センター)は2008年にオープンし、ノルウェー政府によって所有され、The Norwegian Ministry of Agriculture and FoodとThe Crop TrustとThe Nordic Genetic Resource Center(NordGen)によって運営されています。

地球温暖化、新な植物病、人口爆発などの地球に起こりうる今後の変化に備えて植物の多様性を保存しておくことが重要で、現時点では意味がないかもしれないことですが、今後に備えた施設です。

世界の多くの遺伝子バンクが資源と資金不足のリスクがありますが、種の保存センターの遺伝子バンクはスヴァールバルという世界で最も安全な場所で安全に運営することができます。世界中の種の多様性を保存しておくことが未来の世界の食料供給を安全に守ることにつながるというのがコンセプトです。

2015年の段階で、種の保存センターは5000種類以上の植物の種(植物分類上の種(しゆ))を保有しており、40000種類以上もの豆類、156000種類以上もの小麦、それと同数のコメを保有しています。スヴァールバルの種の保存センタ―は450万種類の種を保存できるキャパシティがあり、それぞれの種(しゅ)で約500の種(たね)を保存しています。つまりトータルで22億5000万の種(たね)を保存することができます。

スヴァールバルトナカイ(Svalbard reindeer)は世界で最も北に住む草食性の哺乳類です。北緯76度~80度の間に生息し、約1万年前にスヴァールバルに移ってきたと考えられています。トナカイの7つある種の中の1つで北極または北極圏にすむ種のトナカイです。スヴァールバルトナカイは9歳まで生き、雄はメスより少し体が大き目です。その短い脚と丸っこい顔、ずんぐりとした体つきでゆっくりと動く様子は、他の種のトナカイと異なるポイントです。岩ついた植物を食べる際に歯をボロボロにしてしまい、植物を十分にたべることができなくなって冬に死ぬスヴァールバルトナカイも少なくありません。

北極グマは海岸近くに住む哺乳類で、生活場所は海氷上です。アザラシを主に食料とし、1匹の北極グマが1年間生存するために50~75頭のアザラシが必要と言われています。スヴァールバルはもちろんグリーンランド東からロシア北西にかけて分布し、長距離を移動することも可能です。夏の間は大多数が北緯80度以上にいますが、冬になると北緯76度あたりまでウロウロするようになります。

スヴァールバルには約3000の北極グマが住んでいると言われ、ほとんどの時間を海氷上で過ごしていると考えられています。雄は体長2.5mぐらいでメスになると少し小柄になります。体重は大きなものでオスで800㎏、メスは300㎏ぐらいで、寿命は25年程度と言われます。

最後に

いかがでしたか?世界最北の博物館でもある「スヴァ―ルバル博物館」。スヴァールバル発見から、その後歴史を非常に詳しく展示しています。展示ブースの中央部分にはスヴァールバルトナカイや北極グマ、その他の極地の動物の展示もあり、かなり内容の濃い博物館です。是非機会があればこの世界最北の博物館を訪れて極地の自然の神秘と歴史を学んでみてくださいね。

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