これが過去の大戦で要衝であった理由!Narvik Krigsmuseum (ナルヴィク戦争博物館)!

北部ノルウェーの鉄道・海運の要衝であるナルヴィク。第2次世界大戦においてナルヴィク港は不凍港であり各国の戦略上の要所でもありました。晴れてさえいれば高確率でオーロラが見れる北部ノルウェーエリアに位置し、ロフォーテンからの300番バスの終点でもあります。また東側はスウェーデンとの国境でもあるためスウェーデンからの鉄鉱石の鉄道輸送だけでなく観光客などの人の行き来も比較的多い場所になります。今回はこのナルヴィクの街の中心にあるNarvik Krigsmuseum (ナルヴィク戦争博物館)に行ってみましたので解説します。

ナルヴィク(Narvik)の街の情報(ホテル・観光・スーパー)まとめはこちら

北部ノルウェーの鉄道・海運の要衝であるナルヴィク。第2次世界大戦において不凍港であり各国の戦略上の要所でもありました。東側はスウェーデンとの国境でもあり鉄鉱石の鉄道輸送だけでなく観光客の往来も多い場所になります。今回はこのナルヴィクの街のホテル・観光・スーパ―について解説します。

筆者が実はNarvikってかなり観光でいいんじゃないかと思っていることをうまくまとめているページがあります。それは以下。

Visit Northern NorwayのNarvik特集はこちら

ナルヴィクの位置

上のマップ上、オレンジのピンナルヴィクです。

比較として、ブルーのピンを打ってみました。ブルーのピンは北欧4国各国の首都の空港です。

ナルヴィクへのアクセスについて以下にまとめていますのでどうぞご覧ください。

北部ノルウェーの鉄道・海運の要衝であるナルヴィク。第2次世界大戦において不凍港であり各国の戦略上の要所でもありました。東側はスウェーデンとの国境でもあり鉄鉱石の鉄道輸送だけでなく観光客の往来も多い場所になります。今回はこのナルヴィクへのアクセスについて解説します。

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ナルヴィクの街中心の地図

ナルヴィクの街中心部の地図に色分けしたピンを打ってみました。皆さんお分かりの通り宿泊場所や観光すべきところが豊富というわけではありません。

イエローのピン:ホテル

オレンジのピン:AMFI、Narvik Storsenter(スーパーマーケット)

グリーンのピン:REMA1000(スーパーマーケット)

ブルーのピン:観光案内所、博物館

ブラックのピン:駅、バスターミナル

パープルのピン:Narvikfjelletロープウェイ駅

上のマップの最上部グレーのバー左端のアイコンをクリックすると、それぞれのピンの詳細表示をご覧になることができます。

Narvik Krigsmuseum (ナルヴィク戦争博物館)

ナルヴィクの街中心の一番開けた場所にツーリストインフォメーションがあります。同じ敷地内に建物続きでNarvik Krigsmuseum(ナルヴィク戦争博物館)があります。

寒い外とは異なり、建物の中はしっかり空調が効いています。広い空間で座って休憩できるスペースが結構あります。ツーリストセンターの建物を入って左手にNarvik Krigsmuseum(ナルヴィク戦争博物館)があります。では行ってみましょう。

1940年4月7日、軍艦のNorgeとEidsvoldがナルヴィク港に到着しました。そのミッションは大戦におけるノルウェーの中立性を守ることでした。その2隻の軍艦が高度に戦闘準備が整っていたことは、大戦が近くに迫っていることを示していました。イギリス軍とドイツ軍がノルウェー海域を違法に通過し、ドイツ軍は軍隊を率いてきていました。上の写真はNorgeにあった6つの7.6cm砲のうちの一つです。

軍艦「NORGE」のステアリングホイールが展示されています。

当時ドイツだけでなく英国もノルウェーに興味を示していました。1939年に大戦が始まった数日後、英国の海軍大臣であったウィンストン・チャーチルがノルウェー海域に機雷(水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器)を配置することを提案しました。その理由はドイツ軍が飛行機や武器を製造するために必要不可欠なスウェーデンで採掘される鉄の海上輸送を停止させるためでした。

チャーチルはノルウェー海域での機雷の配置がドイツ軍のさらなる攻撃を引き起こし、当時中立のスタンスであったノルウェーとスウェーデンを同盟国側へ引き寄せることを信じていました。しかし、戦時内閣はノルウェーの中立性を侵すことに躊躇していました。後、1940年4月7日にチャーチルの提案は承認され、英国はHustadvikaからBodøにかけて機雷を配置開始しました。

ドイツ軍がナルヴィクに到達するのを防ぐために英国軍がノルウェー海域に機雷を展開しましたが、それは十分ではありませんでした。英国軍はさらにドイツ軍に兵器を作らせないようにすることも重要なミッションとして挙げていました。いずれにせよ同時期に英国軍とドイツ軍がこの不凍港であるナルヴィクに目を向けていました。

英国軍の軍艦に掲げられていた海軍旗や、ドイツ軍の海軍旗が展示されています。

軍艦「NORGE」の船員の制服です。1940年において、男性は16才からノルウェー海軍に徴兵される可能性があり、その際18か月の兵役勤務がありました。下に軍艦「EIDSVOLD」と「NORGE」のモデルが展示されています。

1920年代~1930年代において人々は楽観的に戦争が無い未来について話し合っていました。1914年~1918年の第一次世界大戦のような大戦がよもや起こるとは決して思っていませんでした。多くの人がノルウェーには外部にもう敵がいないと信じていました。同時期に、経済は低下傾向にあり政府は軍ではなく他のことにもっとお金を費やしていました。そうして次第に軍の規模は縮小していました。

一方ドイツでは、第一次世界大戦で大きなダメージがあり、そこから問題が発生しはじめていました。アドルフ・ヒトラーが力を持ち始め、再軍備を開始し、大ゲルマン帝国 (第二次世界大戦中にナチス・ドイツがヨーロッパに構築しようとして構想した国家概念。ドイツ民族を指導的立場とした、ゲルマン諸民族による広大な領域を持つ国家構想。大ドイツ帝国とも呼ばれます)を提唱し始めていました。

1940年4月9日の未明、闇と吹雪の中、10隻のドイツ軍艦がVestfjordに侵入してきていました。同時にドイツ軍がオスロやノルウェー内の他の都市に接近してきていました。ノルウェー軍艦「EIDSVOLD」はその時ナルヴィク沖で海防のため停泊していました。吹雪が止んだ後、EIDSVOLDの船員が海上にいるドイツ軍艦の侵入を発見しました。

ノルウェー軍艦「EIDSVOLD」が警告射撃を行いましたが、ドイツ軍艦はそれを無視し進みをやめませんでした。ドイツ軍艦はnegotiator(ネゴシエーター、交渉人)を派遣するという意味の信号を送りました。ドイツ軍側の主張は「ドイツ軍はノルウェーの中立性を守るために、そして同盟国の侵略から守るためにナルヴィクに来航した」という物でした。一方的な降伏勧告のようなドイツ軍の主張をノルウェーは拒否し、EIDSVOLDの大砲は侵入してきていたこのドイツ軍の軍艦に向けられました。しかしこの大砲射撃の用意が整うまでにドイツ軍の2機の魚雷がEIDSVOLDの船体を打ち抜きました。15秒~20秒の間に船体は真っ二つに割れ、そのまま海中に沈んでしまいました。これが午前4時37分の出来事でした。

ナルヴィク港ではノルウェー軍艦「NORGE」が、EIDSVOLDの魚雷攻撃を受ける前に7発の射撃をドイツ軍艦に行っていましたが、効果的な攻撃とならず、その間に2000人のドイツ軍が上陸開始し、ナルヴィクの戦いが始まりました。

1940年4月9日の未明、5隻の英国軍艦がVestfjordの入り口に停泊していました。悪天候のため、ノルウェーに侵入しようとしていたドイツ軍は岸から遠く波の安定していた場所を航行していました。そのため英国軍からはドイツ軍の侵入を発見することができませんでした。そののち、英国軍はVestfjordの奥で何かが起こったと連絡を受け、Vestfjordの奥に入っていくことになります。それは灯台守から5~6隻の軍艦がVestfjordの奥に入っていくのを見たという連絡でした。

そしてEISVOLDが攻撃された出来事の後に、吹雪と闇夜の間にイギリス海軍はドイツ軍の潜水艦に感知されることなくナルヴィク港に入ることができました。

その時点でノルウェーは助けを求めていたわけではありませんでしたが、英国軍は2隻のドイツ軍艦を沈め、1隻に大打撃を与えました。このサプライズ攻撃の後、英国軍はOfotfjordに退却しました。しかしそのあと、英国軍はドイツ軍によりサプライズ攻撃を受けることになります。強大な火力戦闘能力を持ったヨーロッパの2国の戦いがフィヨルドの真ん中で始まることになります。2隻の英国軍艦が沈み、13の民間船が攻撃を受け、何百もの船員が亡くなる結果になりました。英国では14隻の新しい軍艦が準備され、ナルヴィクに向かっていました。

地上階から地下に降りる階段の壁に時系列で出来事が記載されています。

ノルウェー軍の制服の展示もあります。大戦前に危機に対して準備していた軍事用品は1940年4月9日にドイツ軍によって奪われてしましました。ノルウェー兵士は首を通す部分に穴の開いた白いシーツを用いた戦闘服を使用していました。白いシーツは冬季の雪のカモフラージュになるということで地元の婦人達によって作成されていたようです。

ノルウェーとドイツ軍が最初に衝突したのは1940年4月12日、Gratangen tourist stationにおいてでした。

迫撃砲はその火力や正確性から、雪の中の塹壕に身をひそめるノルウェー・ドイツ軍どちらの兵士にも恐れられました。

1940年4月9日はナルヴィク港はドイツ軍のG7魚雷で満たされていました。魚雷自体の正確性はそれほどではありませんでした。ドイツ軍がその扱いに難渋していた理由としてナルヴィクの北緯が高く北極自磁性への近接のために正常に作動していなかったことが考えられています。しかし、結果的には一つの完全なヒットによる攻撃で十分でした。

ドイツ軍は第一次世界大戦後の平和条約に違反し1928年に日本から魚雷技術を獲得し、さらにそれを発達させました。そしてほとんどのドイツ軍の軍艦、潜水艦にはG7魚雷が備わっていました。

ドイツ軍が使用していたMG34/42マシンガンなどが展示されています。ドイツ軍兵士は軍からの供給物をエアドロップという形で飛行機から落とされる形で受け取っていました。

当時大半の男性は喫煙者でした。そして兵士には定期的にタバコが支給されました。それには戦争の恐怖を和らげるという意味と飢えを紛らわすという意味もあったようです。

1940年4月13日、当時26歳であった英国海軍将校のPatrick Dalzel-Jobがナルヴィクの北西に位置するHarstadに到着しました。そして彼はノルウェーにフルサポートを要求しました。

英国軍はそのメイン基地をHarstadにセットアップすることを望んでいました。3隻の英国軍艦はSalangenに向かうことを許可されました。そこでは当時の郵便局長が兵士と物資の岸への搬送を助けるために即座に漁船の船団にリクルートを開始しました。その時、さらに10隻の軍艦がナルヴィク外ですでに戦況にあり、同盟国の主導権のもとにありました。この日が終わる前にノルウェーは最終的に英国軍に助けを求めました。

それから2~3週間で、24000人の兵士が英国・ポーランド・フランスから北部ノルウェーに到着しました。それはすでに戦況に入っていたノルウェーに加勢するためでした。

戦線はナルヴィク周囲の山岳地帯を南北に日々上下しており、海上では英国軍がドイツ軍を継続的に攻撃していました。

ナルヴィクの民間人はこれらの集中砲火の中に巻き込まれました。

1940年5月28日には同盟国は勝利しており、英国の海軍将校Patrick Dazel-Jobはその後のドイツ軍の報復がナルヴィクへの爆撃で行われるだろうとわかっていました。そのため彼は46隻の漁船を集め、4000人の民間人をナルヴィクから避難させ、多くの命を守りました。

上記の写真はそのPatrick Dazel-Jobのダッフルコートです。

1940年5月27日、Bodøの街に空襲警報が鳴り響きました。15機のドイツ軍の爆撃機が襲来し爆弾を投下しました。翌日の5月28日、同盟国はナルヴィクを取り戻しましたが、その翌日にドイツ軍はナルヴィクも爆撃を行いました。この時点でドイツ軍は北部ノルウェーにおける戦いで負けてきており、爆撃することによって、同盟国にとって北部ノルウェーが何も価値のない物にしようとしていました。その後ナルヴィクやBodøは焼け野原のようになり、周囲の土地も同様になりました。上の写真はその当時の投下された爆弾の破片になります。

ノルウェー人は彼らの子供にナチスに対して良くふるまうよう教えることを拒みました。1942年その罪として650人の教師がキルケネスに送られ6か月の強制労働を強いられました。1944年、17才の少女が飢えていたソビエト内の囚人にミルクを与えたということで、彼女はトロムソの刑務所に3か月投獄されたという記録が残っています。ドイツ軍はノルウェー人のレジスタンスに対して強硬的で、大戦中に40000人のノルウェー人を逮捕し処罰し、3000人を投獄しました。写真の衣服はノルウェー人の囚人の制服になります。

多大なダメージを受けていたにも関わらずソビエト軍の兵士はドイツ軍に対し戦闘を続け、何とかしてドイツ・フィンランド軍の北極海側の戦線の侵攻を妨害していました。彼らは時に銃撃戦ではなく、直接の攻防になる接近戦になっており、1941年の夏の間を通して戦線は前後を繰り返していました。1941年8月には戦線がキルケネスとムルマンスクのちょうど真ん中に位置するLitza川に到達していました。やがて、ソビエト軍・ドイツ軍どちらの戦線にいる兵士もその厳しい気候と敵との闘いで3年も流血と混沌の中に身に置くことになります。

さらに地下の階に降りていく手段はスロープになります。

この一番下の階には戦車やその他の大型兵器の展示になります。

ドイツ軍に使用されていたFord V8が展示されています。後方をトラックのように改造し、さらに後方に2㎝ Flak38 対空砲(高射砲)を牽引している様子です。

こちらはドイツで製造されていたキャタピラ式のオートバイです。正式名称はNSU社のH.K. 101です。ドイツ語ではクライネス・ケッテンクラフトラート(Kleines Kettenkraftrad)で、「小型装軌式オートバイ」ということになります。ケッテン(Ketten)とはドイツ語で「鎖」、「履帯」を意味しており、クラフトラート(Kraftrad)はオートバイに対する当時の言い回しで、現代のドイツ語における「Motorrad」に相当します。

上の写真は「モーリス軽偵察車(Morris Light Reconnaissance Car)のMK2(4輪駆動型)」になります。第二次世界大戦中にモーリスが開発したイギリスの偵察車(装輪装甲車)で、3名の乗員が並んで座るタイプになります。

後部に牽引しているのはに小型の対戦車砲の「オチキス37㎜対戦車砲(Hotchkiss SA-L MLE 37 Anti-tank gun)」です。第二次世界大戦ではフランス軍を始めとする様々な国々で使用されました。

博物館の展示の最後の部分には原子爆弾のブースもあります。

1945年8月、アメリカ軍が原子爆弾を広島と長崎に投下し、その後第二次世界大戦は終結を迎えました。この歴史上での最も破壊的な兵器は、「平和」継続させるために、恐ろしくかつ脆い保障になってしまっている、この平和を「The cold war」と呼ぶ、と模型には記載されています。

日本からこんなに離れた場所ノルウェーでも日本のことをしっかり取り上げて解説展示しているのを見ると、自分が日本人であり過去の大戦について学ぶことを避けてはならないという責任を感じます。

なお、いくつかのノルウェーの戦争博物館には日本のことを取り上げて解説しているものがあります。下のBodøの「ノルウェー航空博物館」もその一つです。是非ご覧ください。

10000m2以上の広さで北欧の中では最大規模の航空博物館のノルウェー 航空博物館(Norwegian Aviation Museum)。ノルウェーの歴史ととも戦闘機、民間機セクションに分けて圧巻の展示をしています。今回は実際に訪れた写真と解説を交えて紹介します。

最後に

いかがでしたか? 北部ノルウェーの鉄道・海運の要衝であるナルヴィク。第2次世界大戦においてナルヴィク港は不凍港であり各国にとって戦略上の要所でもありました。晴れてさえいれば高確率でオーロラが見れる北部ノルウェーエリアに位置し、ロフォーテンからの300番バスの終点でもあります。また東側はスウェーデンとの国境でもあるためスウェーデンからの鉄鉱石の鉄道輸送だけでなく観光客などの人の行き来も比較的多い場所になります。今回はナルヴィクの街の中心にあるNarvik Krigsmuseum (ナルヴィク戦争博物館)に行ってみましたので解説しました。極寒の地ですので事前に情報を収集して、無駄なく街を歩かれることをお勧めします。その際は本ページを是非参考にしてみてくださいね。

筆者が実はNarvikってかなり観光でいいんじゃないかと思っていることをうまくまとめているページがあります。それは以下。

Visit Northern NorwayのNarvik特集はこちら

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