Nordkappノルウェー北欧

ノルウェー ホニングスボーグ ノールカップ博物館で最北の街の歴史を知る!

ヨーロッパ最北端の岬、ノールカップ (Nordkapp)のベースとなる街ホニングスボーグ。夏は一日中太陽が沈まない真夜中の太陽が見れる観光地として多くの人が訪れますが、冬の夜となると話は全く別です。冬のノールカップへはまずアクセスが限られます。昼も夜もブルドーザー型のトラックを先頭に後続の車が隊列を組んで現地へ向かう方法しかありません。このためノールカップに行くにはホニングスボーグに泊まることが必須になります。

このホニングスボーグにはノールカップ博物館Nordkappmuseetがあります。

今回は実際に行って撮影した写真を交えてノールカップ博物館「Nordkappmuseet」の紹介をします。

 

 

 

ホニングスボーグの街

紫色のピン:ホテル

グリーンのピン:スーパーマーケット

ブルーのピン:教会、博物館、観光案内所等

オレンジのピン:レストラン「Corner」

上のマップの最上部グレーのバー左端のアイコンをクリックすると、それぞれのピンの詳細表示をご覧になることができます。

 

 

ノールカップ博物館「Nordkappmuseet」

ノールカップ博物館はこの地方の石器時代から現代までの歴史を展示しています。この地方の発展についてと、ホニングスボーグやフィンマルクエリアにおける第二次世界大戦の際の破壊とその後の再建についてなどについての貴重な資料や写真を展示しています。

季節によってopen時間が異なりますが通年営業です。Google Mapで営業時間については行く前にチェックしておきましょう。特に冬はcloseが早い(15時)ので注意しましょう。

 

 

-20℃の極寒の外とは違って施設内は暖かく調節されています。入口入ってすぐあるカウンターで入場料(大人1人50NOK、12才未満無料、学生20NOK等)を支払います。もちろんクレジットカードに対応しています。

チケット購入時にカウンターのスタッフから内部の説明があります。1階と2階に展示スペースがあるということです。

入口入ってすぐの大きなパネルにマーゲロイ島の説明があります。そして最も北の岬がノールカップであることを説明しています。

 

入口近くにフィンマルクの船舶のモデルが展示されています。バイキング時代の船舶建造業の伝統はノルウェーで続き、ノルウェー北部に典型的なこの種の漁船で見られノルドランド・ボートと言われました。航海にも漕ぎ船としても適しており、使用されていない間は容易に陸上にも引き上げることができました。帆のある貨物船は南の市場と品物を運ぶために使用されていたとのことです。

 

これは2階に展示されているノルドランド・ボートで、Sorgenfriと名前が付けられています。1938年建造で魚釣りを主目的とし3人乗りです。何百年も前から現代まで釣り漁船はこの形状で続きました。

そして、隣に展示されているエンジンは1917年に作られた、電気を供給する小型発電機として当時は使用され、その後復元されたものです。1900年から1925年にかけて海上・陸上では大きな変化がありました。1910年頃からエンジンをノルドランド・ボートに装着することが一般的になりました。1922年にはフィンマルクエリアで1000隻以上の船舶がエンジンを装備していました。

エンジンは魚工場で電燈のために使用され、年間を通じて魚をより効率的に冷凍することが可能になりました。これは北部水産業に大きな影響を及ぼすことになります。

 

1590年代にウィレム・バレンツ(バレンツ海の由来となった名前)はシベリアの北を経由するアジアへの海上ルートを探索していました。1596年に彼の最後になった探索では、船がノバヤゼムリャ付近の海氷の中に閉じ込められてしまい、冬の間遠征隊はそこでとどまらなければなりませんでした。そして次の夏、ウィレム・バレンツは故郷に帰る途中に亡くなり、遠征隊の内12人が手漕ぎ船でコラ半島へ渡り生き残ることができました。

写真は1594年Jan Hygenによって作成された地図です。他にバレンツのノートとスケッチが施設内に展示されています。

 

昔から続く干しダラの展示もあります。

 

同じような木組みが今でも続いており、フィンマルクやロフォーテンでも漁のシーズンの春になれば干されているタラを見ることができます。

 

1830年代、1930年代、2016年でどのようなものが生産され、どのように運ばれていったのかを分かりやすく表示しています。

 

漁で採れ、製品となったものがどの国にどの割合で運ばれているかを示しています。日本にも来てますね。

 

 

ノルウェーの歴史を語る上で第二次世界大戦は避けることのできない史実です。

中立を宣言していたノルウェーですがドイツ軍により侵攻されます。1940年4月9日にドイツ軍のノルウェー占領が始まり、1945年5月8日ヨーロッパでドイツ軍が降伏するまで約5年間ノルウェーを支配しました。フィンマルクエリアは1940年9月からドイツ政府の支配下にあり、ホニングスボーグにも約800人の将校と兵士が配置されました。

 

ノルウェーを占領、支配することは当時のドイツ軍にとっては、西側同盟国による攻撃を防御するために必要なことでした。約340の拠点がノルウェーで建設され、大西洋の壁と言われました。

1941年6月以降、対ソビエト連邦に向けてノルウェーの海岸線は武器類の輸送にますます重要となり、ホニングスボーグはキルケネスやさらに東の前線に行く船の停泊拠点になりました。連合国側としてはドイツの前線へのルートを分裂させることが重要と考えられ、フィンマルクエリアはドイツと連合国(ロシア・イギリス)軍の塹壕戦の戦場になりました。皮肉にもホニングスボーグの港・町も連合国の爆撃により多くの民家が破壊される結果となりました。

 

ソビエト軍の大攻勢のため1944年10月にドイツ軍はフィンランドから退却することが必要になりました。そしてドイツ軍が退却していく場所では、「焦土戦術」が実行されることになります。これはロシア人や同盟国にとってすべての家およびすべてのインフラを使用できなくするために破壊するというものでした。フィンマルクエリアの荒廃は大規模で1944年12月にはホニングスボーグは全焼し、唯一ホニングスボーグ教会だけが残り今でも残っている貴重な建造物となりました。

この間フィンマルクから約50000人のノルウェー人が自国内ながら難民となっており、あるものは洞穴で、あるものは離れた山里で、あるものはトロムソでひっそりと滞在せざるを得ない状況になっていました。

 

そして、1945年5月8日ヨーロッパでドイツ軍が降伏し戦争が終わります。

同年の夏には人々がフィンマルクエリアに帰還し始めました。水産業を復活させ、復興するために労働者が優先的に帰還となりました。当時家はなかったため、多くのひとが教会に寝泊まりして再建に昼夜身を捧げました。そして興味深いことに新しい建物は近代設備を備えたものではなく、戦前の建築と同じスタイルで建造されました。

 

1953年にホニングスボーグに発電所が建設されるまでは、小さな発電機~ディーゼル発電機を使用していました。1953年以降漁業が急速に復興し、冷凍フィレ生産工場の建設等で近代化されていきました。

 

最後に

いかがでしたか?ヨーロッパ最北端の岬ノールカップの拠点となるホニングスボーグのノールカップ博物館。冬の間外は極寒ですが、博物館の中は暖かく非常に快適に過ごせるように工夫されています。そして博物館内では大昔から中世、第二次世界大戦におけるフィンマルクエリアの歴史を詳しく展示・説明しています。ノールカップ観光・オーロラ観光に訪れた際にはぜひ昼間にこの博物館でフィンマルクエリアの文化・歴史に触れてみてください。

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